◆シリーズ「輝いている人」
沖縄支部 喜納 正博さん

31 喜納a

「生きているあいだに障害者を10人雇用したい」

 私は、昭和33年8月、沖縄県糸満市で6人兄弟の末っ子として生まれ、3歳の頃に進行性筋ジストロフィー症と診断されました。体力的に他の同級生に劣っても、無事に小学校、中学校を卒業しました。療養のため、鹿児島県加治木町の国立病院へ入院し、療養生活をしながら通信教育鹿児島西高等学校に入学し卒業しました。
その後、このままここで一生を終える事はしたくないと病院を出て、鹿児島県立障害者職業訓練校に入校し、経理事務科で、簿記1級、珠算2級、ワープロ3級を取得し、国分市にある税理事務所に初の就職をしました。しかし、その頃には病状の進行も激しく日常的な生活にも支障をきたすようになっていて、昭和54年、21歳の時に帰郷しました。就職をしても一年も経ずに、社会から逃げるように入院してしまいました。
22歳の時に結婚、長女を儲けました。子供を手に抱かせてもらった時に、初めて責任という課題が出来ました。
これまで、障害者ということでいろいろな人の厚意に支えられてきましたが、現在の主な役職は次のとおりです。
○沖縄県支部筋ジストロフィー協会会長
○在宅筋ジストロフィー会会長
○NPO法人宜野湾市身体障害者協会副理事長
在宅障害者の支援を訴えると、新聞各紙に取り上げられました。38歳のときに起業し、障害者の集うことの出来る場所、みんなで働けるような場所が欲しいと、ぎのわんパソコンを設立しました。280名の会員登録があり経営的にはうまくいったものの、目的である障害者の集う場所にはなっていません。そのような中、看護師という仕事をしながら私の介護全般を担っていた妻が脳溢血で他界しました。深い絶望感と将来に対する希望を失いましたが、介護事業所を使いながら生活を立て直し、パソコン教室を継続することが出来ました。
しかし、私の思うような介護支援ではなくて、国の基準に基づいた介護に対して疑問を持ち、利用者目線で介護出来ないものかと考えました。それを思ったのは息子が自宅へ戻った時に鍋をあけるので、息子の分も多めに作れないものなのかといったことが始まりでした。それを機に利用者のベッド周りや利用者以外に使うものに関してはケアの対象ではないということがわかりました。
家族のケアも含め、訪問介護や入院していた時の思いなどを思い浮かべ、私の理想とする介護の在り方を考え、それを実行するために、有限会社フィーチャー企画を設立し法人としました。介護事業に参入し、訪問介護、その後は必要にかられて訪問看護、児童デイサービス、障害者のデイサービス(生活介護)などを行い、その後老人のデイサービスなども追加しました。
2010年に株式会社KINAを立ち上げ社長に就任し、フィーチャー企画では会長へ。障害者支援と介護保険支援を両輪として、障害者の通所施設と老人ホームとデイサービス計4施設を運営し現在に至っています。社員数も両法人合わせて300名を超えて責任の重さを感じるようになりました。
私は生きているあいだに障害者を10人雇用したいと思っています。それは私が妻の扶養で生活していた時に、私も環境さえ整えば働けると思っていたことと、働くことによって人間形成が出来、自信が持てるようになったからです。それはパソコン教室をしているころに感じたことです。
私の思いが誰かの人生に有意義になりそれが、一般の健康な人と同じように物事が見られるようになれば、どれほど社会のためになるのかもしれません。たくさんの人に支えられた私が出来る恩返しがそれにあたらないかと思い、社会への恩返しも含め、「人の為に役に立つ人間に成りたい」を人生の教訓にしています。
会社の基本理念は色々あっても、やはり、お客様に喜ばれるような会社を目指しています。その為には社員とよいコミュニケーションをとって、社員を大事にしていきたい。私の成長と社員の成長ととともに理念を変えていき、経営的側面では、お客様を創りだし、お客様占有率で1位の会社を目指します。社員の成長がないとそれを望めないので、社員教育はしっかりとして、そして何より、働くことを通して私自身の人生を楽しんでいきたい。